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kazuki umezawa

赤坂アートフラワー

http://sacas.net/artflower/index.html

・東京は赤坂にある複合エンタメ空間「赤坂サカス」を中心とした赤坂一帯で行われたアートイベント、展覧会。
・元高級料亭「島崎」と旧赤坂小学校の展示空間がそれぞれとても良かった。
島崎は暖簾を下ろされてから四半世紀以上経つかなり老朽化の進んだ建造物で、暗い中での作品の見せ方が種類を問わず面白かった。歩き辛いといえば歩きづらかった。旧赤坂小学校は体育館を中心として鑑賞者との交流が考えられていて空間も気持ちも明るい感じだった。

・ジャンル問わず支持体や空間に対して言及する作品が多く、その事が交流の糸口にもなっていた。

・説明を必要とされる作品より、五感で良さを感じ取れる作品が多く、街を歩きながら鑑賞をするというスタイルに合っていたと思う。

・オープニングの時と終了間際とで二回観にいった。

淺井裕介「泥絵・昨日の半分と明日の半分」「Masking Plant」
淺井さんの名前はこの展覧会で初めて知った。
今回は泥で体育館入り口一面に絵が描かれていた。
問答無用で惹かれた。
絵に力があるとしか言いようがない。
マスキングテープで描画したり、壁の地の色を利用して描画されていたりと興味深いやり方だったが本人の絵力に何よりも興味がいった。ちらりとオープニングパーティ後にお話ができたが、なぜか片足を折っていてますます興味がわいた。後で聞いたところによると捻挫らしい。

マスキングテープとパラモデルのレールが両方とも空間を侵食していて良い組み合わせだと思った。

・田尾創樹+おかめぷろ「Kiss boy 」
一見すると「作者は病気」な作品だった。



博士っぽい人と少年とヒロインらしき人の物語絵巻?いちおうストーリーはあるようにも見えるが、支離滅裂だし変なところに髭や髪の毛が生えているし、妙に唇が分厚く描かれてたり、設置してある様式便器を中心にキスマークがこびり付いているし、悪い夢のようだ。変な世界を表現しようとしているのではなく、純粋に希望のある物語を作ろうとしてこうなったような印象があり、うすら寒さと表現力を同時に感じる。強引に空間の中で完結していたが、媒体が絵本などであったら幾分かスマートなものになるのだと予想したりした。本だったら間違いなく買う。博士や雰囲気からmariさんを連想させた。

おかめぷろHP
http://www.okamepro.com/#/Furukawa_Penny/

・トーチカ「IKEBANA 2008」「PIKAPIKA」「PIKAPIKA 2007」

光の残像を使ってアニメーションを作っているグループが居ることはyoutubeやメディア芸術祭などで知っていたが、島崎で見る彼らのアニメーションはより楽しく動きに溢れるものだった。もともと室内にある置物を利用した、壷から壷へ光で描かれたキャラクターが移動するような作品や、小さな障子に映し出されたものなど、狭い室内を自由に使っていた。本人達も楽しいんだろうなー。
見たことある映像もいくつかあって以前から知っている人はニヤリとさせられる。飲み会の後とかにちょっくら携帯電話(?)などの光の残像でアニメーションを作ってしまうようなノリは見ていてうらやましい。
描画の記録映像でありアニメーションでもありパフォーマンスでもある、領域フラフラな彼らの作品がこうして展示すると「インスタレーション」というくくりになるのも不思議だ。

http://white-screen.jp/2008/03/pikapika.php
映像見れる

松宮硝子「Duquheapure」
もとも絵を描いていて、「Duquheapuer」(ドゥークーヒープー)という架空の生き物を表現する媒体を探し、結果ガラスに落ち着いたという過程が興味深い。自分の視界を通して脳内に存在する生き物やキャラクターというのは多くの人が持っているものだと思う。それらはスタンダードに「描く」という手法が取られることが多い。しかし松宮さんは描かずに無機質な、生きていないガラスという物体から生命を掘り起こすという考え方を採用した。想像上のキャラクターというのは不安定で不鮮明だがガラスは確固とした物体で存在感がある。このギャップが彼女の作品の存在感を増しているように思う。というか展示を見てそう思わされた。
暗い中ライトを使わなければ見つからないような手のひらサイズの物から、一部屋全部を埋め尽くすような大きな物まで、作品の大きさに随分幅があった。作者の脳内のドゥークーヒープーの種類の幅に対応しているかのようだ。
一部屋全部を埋め尽くしていた作品はガラスが意思を持たされてぶちまけられたようだった。硬い物質らしくない、動きを想像させるような曲線の造形が随所に見られた。後で聞いたところによるとガラスだけじゃなくて専用の接着剤(けっこう高いらしい)やガラス以外の何かも使われているらしい。相当な研究の末に成立している形態なんだなーと思い知らされる。本人が制作のことを「調査、研究」などと呼ぶことがあるのと関係があるのかもしれない。ガラス工芸などの伝統的な美術からみたらどう見られるんだろう?


志村信裕「pierce」




先輩の志村さんの新作映像インスタレーション
美大で一番大きな講義室を丸ごと卒業制作に使用するなど大規模な作品でお馴染みという印象だけど、今回の作品はそれほど大きくない。少なくとも人間の身体感覚を飛び越すような大きさではない。その代わりまち針を33万本畳に刺したスクリーンという驚異的な密度を持っている。
敷き詰められたまち針の玉すべて、33万の玉が映像を映し返している。離れて全体で観るとぼんやりと映像のイメージが確認できるが、近づいてよく観るとまち針単体の存在が視界に潜り込み映像のイメージは失われる。マクロとミクロの見え方の行き来が面白くて何度も近寄ったり離れたりして観てしまう。
この見え方はモニタの画像やドット絵を見る感覚に似ている。普通に絵が見えると思いきやズームして見るとドットの四角い単色が画面全体を埋め尽くし全体が見えなくなるような。
「pierce」の場合まち針自体に存在感があるため全体としての映像に立ち戻った瞬間、その存在感×33万の密度の質感を映像に感じる錯覚を引き起こす。単純にでかく投影するだけでは得られない密度としての存在感を映像にこれだけもたすことが出来るのはこの人だけなんじゃないだろうか。非常に心地良い空間だった。
しかし映像のチョイスが急ごしらえとは思えないほど理にかなっていた。木々による木漏れ日とまち針の木漏れ日のコラボは反則だ。
そもそも畳自体が万や億を越えるような無数の藁で出来ているし、投影されている木漏れ日の映像も葉っぱや光の隙間の数は無数にある。いろんな意味で密度のある作品だと思う。

インタビューがあった
http://www.nhk.or.jp/digista-blog/200/12740.html